ギャングプロフィール

バグジー・シーゲル物語

2016年5月1日 • By

ベン “バグジー” シーゲルは、ニューヨークマフィアの看板男として知られるが、近年まで、彼の殺害は、米国史上最も大きな未解決事件のひとつだった。彼の物語は以下の通り。

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始まりの地

ベンジャミン・シーゲルは1906年、ブルックリンでユダヤ系移民の両親のもとに生まれた。当時、イタリアとアイルランドのマフィアが支配していたウィリアムズバーグで育ち、若い頃からゆすりをし、ロウアー・イースト・サイドの露天商から上納金を取り立てていた。

シーゲルは、マイヤー・ランスキーという若者と早い時期から仲間となり、バグズ・マイヤー・ギャングを組んだ。メンバーはすべてユダヤ人だった。また、マーダー・インクという組織で殺しの依頼も受けていた。

ニューヨークマフィアが成長、進化し、優れた組織になると、バグジーも主要な人物としてのしてきた。チャールズ “ラッキー” ルチアーノが犯罪シンジゲートを設立すると、バグジーとその仲間は、殺し屋ジョー “ザ・ボス” マセリアと組んだ。シンジケート設立の目的は、ニューヨークの古巣ギャングらを一斉に殺害することだった。

マフィアの話にはつきものだが、バグジーは密造酒と賭博を稼業にしていた。1930年代末、その稼業ごとカリフォルニアに移住し、ビバリーヒルズに豪邸を建て、ハイウッドの著名人らと交流した。

バグジーは、女優のバージニア・ヒルと付き合い始め、二人は常に喧嘩が絶なかったが、同時に美貌のカップルとしても有名になった。

ラスベガスでの仕事 – 終わりの始まり

1945年、バグジーとバージニアはラスベガスへ移住、フラミンゴホテル & カジノを建設し始めた。ラスベガスの初期カジノのひとつで、バージニアの「フラミンゴのような」脚にちなんで名付けらた。費用は600万ドルで、当初の150万ドルの4倍になった。後にこれは、シーゲル自身の窃盗と横領であったことが投資家らにより判明している。その投資家のうちの1人に、旧友のマイヤー・ランスキーがいた。彼は決して快く思わなかった。

1947年、バグジー・シーゲルは、自宅の窓越しに銃撃された。同日、ランスキーの手下がカジノに入り、乗っ取りを宣言した。

2014年まで、バグジー殺害はシンジケートの命令によるものとされていた。しかし、そのような証拠は見つからなかった。近年、新しい説が浮上している。それは、ランスキーは単に無計画だったことを示唆している。

モエ・セドウェイは、ランスキーの投資資金を記録する帳簿係だった。彼の妻ビーは、シーゲルと仲が良かった。ビーは、バグジーがセドウェイを殺したいと思ってることを突き止めた。彼女は夫の命を救おうと、愛人でトラック運転手のマシュー ‘ムース’ パンザに、バグジーを消すことを懇願した。

この新説が本当なら、米国で最もミステリアスな未解決マフィア殺人事件のひとつが、ついに幕を閉じるかもしれない。